届かなくても、構わないから

 話せなくても、構わないから

 触れなくても、構わないから

 あと一度、その声で私の名を呼んで


 運命恋歌 第十二廻


 空を、漆黒の闇と煌めく星と月が覆う。
 ひとひら、桃色の花弁が夜空を舞った。

 桜の大木の下、佇む猫又が独り。
 憂うように、ただ無言で幹を見上げていた。

 無数の時が流れる。
 猫又は一言も発することなく大木に背を向けた。
 その背にあるのは決意か後悔か、――――郷愁か。

 否、恐らくは懺悔だろう。



 はあ、と息を切らしてその地に足を置く。
 そこに在ったのは、夜の帳と桜の樹。

 ―――葉王の巫力を、恐らくはマタムネの存在を感じたのだけれども……

 気のせいだったのだろうか。
 在りもしないものを追い求めて走るなんて、まるで馬鹿の所業ではないか。

「……っこんなの、私らしくないよぉ…っ」

 震えた声で一人呟く。
 疲労に負けた足の力が抜け、情けなくその場にへたりこんだ。

 ――桜の下に立っていると、気がおかしくなるって誰かが言ってたっけ…………

 強くあろうと、揺るがない絶対の力を欲したはずなのに。
 たった一人の存在に、こんなにも心を揺さぶられるなんて。

「葉王……」

 たったひとつの、小さな言乃葉。
 けれどひとつの、大きなコトダマ。

 桜の花が、狂い咲く。



 どくん、と心臓が高鳴る。
 心の片隅に想い描いていた光景が、まるで自分の目の前で実現したかのように。

 水のように柔らかく流れる夜風に、彼女の髪がなびく。
 彼女は大木の下に腰をおろし、幹に背を預けて死んだように目を閉じていた。

 ――――眠って、いるのだろうか?

 久方ぶりに見たの寝顔に微量の動揺を覗かせつつ、彼女の隣へ歩み、膝をついた。
 細く柔らかい髪を指に絡め、優しく口付けた。

「もう、離さないよ」

 小さい声で、ハオが囁く。
 柔らかく細いの身体を自分の胸へ引き寄せ、強く抱きしめた。

「………?」

 閉じていた双眸をゆっくりと開ける。
 どうやら、桜の樹の麓で眠り込んでいたらしい。

 それにしては何故、温かい何かに包まれているのだろうか。

 熟睡した後の余韻である、鈍い思考回路を必死に動かす。

「…?」

 不意に、優しげな声で名を呼ばれた。
 声の主が、未だ自分を包んでいるそれだということに気付き、ほんの少し身を動かす。

 が反応したことに安堵したように、彼女の頬に指を這わす。

「………

 もう一度名を呼び、彼女の瞳を覗き込んだ。
 茶と黒の中間ともいえる瞳の色は、昔のままだ。
 ほんの少し虚ろなまま光を宿す様は、寝起きだからなのだろうか。

「…………?」

 ほんの少し首をかしげ、がハオを見つめる。
 そして、あどけない口調で言葉を紡いだ。

「……だぁれ?」



 数秒間を置いてから、不意にハオが吹き出した。
 の瞳から視線を背け、思わず失笑する。

 ―――誰とも分からない男の腕に抱かれて、抵抗一つしないのか………

 忘却の彼方に消えかけていた記憶の糸を手繰り寄せる。
 そういえば、彼女の寝起きの思考回路は恐ろしく鈍い。
 その事実を思い出してから、疑問符を浮かべる彼女に向き直った。

「…誰だと思う?」

 ハオの言葉に、が考え込むように顔をしかめる。
 そして首をかしげ、ふるふると頭を横に振った。
 彼女の、そのあまりの従順さに自分でも気付かず笑みを零す。

 の頭に手を乗せ、優しく撫でた。

「後で教えてあげるよ」

 そう囁き、の口唇と自分のそれを重ねた。



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