心が、どろりとしたものを吐き出した

 心に、どろりとしたものを吐きかけた


 運命恋歌 第37廻


 自宅の扉を開ける。
 そこは闇だった。雲の中のような心地よさでもあった。

「葉王…?」

 が闇に向かって声をかけてみても、返事はなかった。
 靴を脱ぎ、廊下を踏む。リビングを覗くが、人はおろか生き物の気配すらしなかった。

 誰もいない電話の横を通り過ぎる。
 一通り家の中を覗いた後、最後に自室のドアノブに手をかけた。

 ドアを開ける。キイ、とやけに音が響いた。暗闇と相まって、やけに大きく聞こえる。

「……葉王…?」

 再度が声をかける。
 しかし、声をかける必要はなかった。自分のベッドを見るからに、一人分の膨らみが見て取れる。

「……ああ、おかえり、

 ハオの声が聞こえた。若干くぐもっていたけれど。
 ハオに近づく。暗闇の中、ハオがベッドに仰向けに寝転がっているのが分かった。顔の上に腕が乗っているため、声がくぐもっていたようだ。

 ハオの脚の辺りに、が腰を下ろした。二人分の体重に、ベッドがわずかに悲鳴を上げる。

「…どうしたの」

 控えめにが問うた。



 しばらくハオからの返事はなかった。沈黙が続く。

「……別に」

 だいぶ経ってから、ハオの返答が聞こえた。
 窓から入る月明かりで、ハオが少し腕を上げてこちらの表情を窺っているのが、見えた。

「…電気、点ける?」

 が声をかけた。暗闇の中でも分かるほど、柔らかい声だった。

「いや、良いよ」

「…そう」

 そしてまた、しばしの沈黙。



 ふいに、ハオが腕を伸ばしてきた。闇の中からだった。
 ハオが起き上がる。の腹辺りに腕を回して、彼女ごとベッドに再度寝ころんだ。を抱きしめたまま。

「は、葉王!?」

 、と名前を呼ぶ声が聞こえた。若干掠れて。
 ハオがの肩あたりに顔を埋めた。少し縋るように、多少甘えるように。

「…黙って」

 いつかと同じやりとりだ。

 そう思ったのはどちらだろうか。恐らく、両方。
 がそっと、ハオの髪を撫でた。珍しく、自分の目線より下だった。



「…葉王?」

 そっとが声をかけた。まるで、寝ているのかどうかを確かめるように。
 ハオが少し身じろぐ。を抱く腕に力をこめた。脚と脚が絡まる。

「日常って、何だと思う?」

 ハオが呟いた。唐突な問いだった。

「…何、急に」

「今日開会式で言われた」

 返ってきた声には感情がなかった。こちらを窺う目線だけを感じる。

「もし今が日常なら、もう今には一生戻れないよ」

 ハオが言う。に向かって言っているのか独り言なのか、判断はつかなかったけれども。



 ――もう、今が日常になってしまっているのだろうか

 ハオが当たり前のようにそばにいる今が。
 否定はできなかった。ハオと同じように自分も、彼の肩に顔を埋めたい衝動に駆られた。

「…やだよ」

 が小さく呟いた。その声は少し、掠れていた。
 何に対してだろうか、答えは見つけられないけれど、確かにそれは独り言だった。



「…ねえ、」

 ハオの声が胸のあたりから聞こえた。これもまた、少しくぐもっていた。

「…何?」

「…愛してよ、僕を」

 闇の中で、鋭い、刺すような声だった。ハオが下から見上げているのが伝わる。

 ごくり、とが唾を飲む。やけにねばついた口の中で、言葉は見つからなかった。



 Bext  Next